生酛とは|山廃・速醸との違いと乳酸菌が育てる酒母造り

生酛とは|山廃・速醸との違いと乳酸菌が育てる酒母造り

生酛(きもと)は、乳酸を人の手で加えず、蔵にいる乳酸菌に乳酸をつくらせて酒母を育てる造り方だ。独立行政法人酒類総合研究所は、酒母を乳酸の獲得方法で二つに分け、生酛系では乳酸菌に乳酸を造らせると書いている。この記事では、半切り桶に仕込むところから清酒酵母だけが残るまでを時間の順に追い、山廃と速醸との違いを並べて整理する。そのうえで、生酛が最初に必要とする硝酸という物質を、日本の水の法令がどう扱っているかを条文で確かめていく。水道法も水質汚濁防止法も、その物質の名を本則には書いていない。名前と数字を与えているのは、入口と出口それぞれの下位法令のほうだ。

生酛とは|乳酸菌に乳酸をつくらせる酒母

生酛とは|乳酸菌に乳酸をつくらせる酒母
仕込みタンクの並ぶ蔵の内部

酒母は、もろみを発酵させる酵母をあらかじめ増やしておくためのものだ。酒類総合研究所は、その役割と条件をこう説明している。

酒母は、醪を安全に発酵させるために必要な優良酵母を培養しますが、野生酵母や細菌の混入を防ぐために、強い酸性(乳酸)下で造られます。

出典:独立行政法人酒類総合研究所「清酒(お酒のQ&A)」

酵母を増やしたいのに、酵母以外の微生物は増えてほしくない。この二つを同時に満たす手段が、酸性にすることだった。梅干しや酢漬けが腐りにくいのと同じ理屈で、酸が強い場所では腐敗をもたらす細菌が生きられない。

乳酸の入手先で酒母は二つに分かれる

では、その酸をどこから持ってくるのか。同研究所は、分け方の基準を乳酸そのものではなく、乳酸の獲得方法に置いている。

酒母は、乳酸の獲得方法により、生酛(山廃)系酒母と速醸系酒母に分けられます。

出典:独立行政法人酒類総合研究所「清酒(お酒のQ&A)」

続けて中身が書かれている。生酛系の酒母では、乳酸菌に乳酸を造らせるのに対し、速醸系では、醸造用規格の乳酸を使用しています。。つまり生酛は、乳酸菌が増えて乳酸を出すまで待つ方式で、速醸は最初から乳酸を入れて待たない方式だ。同じ文は、待つことの代償も数字で示している。生酛系酒母では、乳酸菌が増殖するまで時間がかかりますので、製造期間は2倍かかります。。

酛は酒の母という字だ

酛という字は、酒偏に元と書く。酒母とも呼ばれ、どちらも同じものを指す。酒類総合研究所の情報誌は、この字について昔から酒造りの根幹をなすものと考えられてきましたと書いている。もろみに対する酒母の量も小さくはなく、同誌は酒母の量は、もろみの量の6~7%前後ですと書いている。

百分の六か七という比率は、もろみ全体から見ればわずかだが、そこに含まれる酵母の質がその後の発酵を決める。生酛が手間をかけられてきたのは、この小さな部分がすべての出発点だからだ。日本酒そのものの成り立ちは日本酒とはの記事にまとめている。

いま流通する清酒の大半は速醸で造られている

生酛が伝統的な方式だとしても、現在の主流ではない。同誌は速醸について現在、清酒の大半はこの速醸酛で造られています。と書いている。速醸を開発したのは同研究所の前身である醸造試験所で、乳酸菌の代わりに、高純度の乳酸(醸造用乳酸)を添加して酒母を作る技術だと説明されている。

時間の差もはっきりしている。生酛では、乳酸菌が乳酸をつくるまでに2週間ほど必要ですが、乳酸を使用すればこの期間が不要です。。二週間という待ち時間を丸ごと省けるなら、多くの蔵が速醸を選ぶのは自然なことだった。生酛の表示がラベルにわざわざ書かれるのは、それが例外の側に回ったからでもある。

酵母のほうは、番号を付けて全国に配られてきた

乳酸の入手先が二つに分かれる一方で、酵母のほうは早くから共有される仕組みができていた。酒類総合研究所は、優良な酵母を蔵のもろみから純粋分離して選抜する作業が古くから行われてきたと述べ、その配布についてこう書いている。

こうして選ばれた酵母は1906年から(財)日本醸造協会より「きょうかい酵母」として頒布されています。

出典:独立行政法人酒類総合研究所「お酒のはなし」第10号 清酒II

同誌は、現在の主流を六号、七号、九号、十号とし、遺伝子解析ではこれらが非常に近い類縁関係にあるが香りや味には個性があると説明している。配布の単位も具体的で、アンプル一本に約二百億個の酵母が入っているという。

つまり、後半で加える酵母は全国の蔵が共有できるものになっている。生酛が独自性を持つのは、その酵母を迎え入れるまでの環境をどう作るかという前半部分のほうだ。

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棚に並ぶ日本酒の一升瓶

生酛や山廃の造りを試したいときは、まず純米で燗にできる一本から入るとわかりやすい。以下は当店で扱っている日本酒のラインナップだ。品揃えは随時入れ替わるので、気になる銘柄があれば在庫のあるうちに確かめてほしい。

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山卸と打瀬|生酛の工程を時間の順に追う

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酒造りの出発点になる米

生酛の工程は、道具と温度と日数で書き表せる。酒類総合研究所の情報誌「お酒のはなし」第十号は、仕込みの入口をこう記している。

蒸米と麹と水を半切りという桶に14~15kgずつ8℃程度に仕込みます。

出典:独立行政法人酒類総合研究所「お酒のはなし」第10号 清酒II

半切りは浅くて口の広い木桶で、これを何枚も並べて使う。一枚あたり十四から十五キログラムという単位で、摂氏八度という低いところから始まる。

山卸は一日三回、二人か三人がかりで行う

仕込みの翌日から、生酛の名を象徴する作業が始まる。

仕込みの翌日、これを櫂(かい)という道具を使ってすりつぶします。この作業を「山卸(やまおろし)」といいます。冬の寒い部屋でひとつの半切りに2~3人がかりで、1日3回するという大変な作業です。

出典:独立行政法人酒類総合研究所「お酒のはなし」第10号 清酒II

一日三回という頻度は、昼夜を問わないという意味でもある。半切りが十枚あれば、それを三巡する。生酛が広がらなかった理由は味ではなく、この一行に集約されている。

打瀬という三日間、温度をあえて上げない

すり終わったものはタンクに移される。ここで温度を上げず、低いまま置く期間が来る。すり終わればタンクに移して3日ほど6~7℃の低温に保ちます。と書かれている。この三日間が打瀬(うたせ)だ。

低温は、待つための条件になっている。乳酸菌はまだ動かず、ほかの微生物も活発ではない。その静かな三日のあいだに動き出すものが、生酛の設計の中心にある。

暖気入れで一日一度ずつ上げていく

打瀬が終わると、今度は温度を意図的に上げる。

「暖気入れ(だきいれ)」といって熱湯を入れた樽(暖気樽)を2~3時間入れては抜く作業を繰り返し、1日1℃程度温度を上げていきます。温度が上がってくると徐々に乳酸菌が活動し乳酸を作り始めます。

出典:独立行政法人酒類総合研究所「お酒のはなし」第10号 清酒II

一日一度という上げ方は、乳酸菌が動き出す速さに歩調を合わせたものだ。暖気樽は熱源を入れた容器で、それを入れては抜くという操作で温度を刻んでいく。全体では、同誌が生酛を作るには4週間という長い期間と多くの手間がかかります。と書くとおり、四週間かかる。

生酛で起きる微生物のリレー

生酛で起きる微生物のリレー
盃に注がれる清酒と酒米

打瀬のあいだ、何が起きているのか。ここが生酛の核心にあたる。

この期間を「打瀬(うたせ)」といい、仕込んだものの中にいた硝酸還元菌という微生物が働き出して、仕込み水に含まれる硝酸塩を分解し亜硝酸を生成します。この亜硝酸には、酵母の増殖を抑制する作用があります。

出典:独立行政法人酒類総合研究所「お酒のはなし」第10号 清酒II

読み落とせないのは仕込み水に含まれる硝酸塩という部分だ。硝酸還元菌が変えているのは、米でも麹でもなく、水に溶けている物質である。生酛の一手目は、水が何を連れてきたかに依存している。

亜硝酸が最初の関門をつくる

亜硝酸は酵母の増殖を抑える。ここで抑えられるのは、まだ加えられていない清酒酵母ではなく、米に付いてきた酵母のほうだ。糖がまだ少ない段階で網をかけておく、という順番になっている。

やがて暖気入れで温度が上がり、乳酸菌が乳酸をつくり始めると、二つの物質がそろう。こうしてできた乳酸と亜硝酸の協同作用で産膜酵母や野生酵母は死んでしまいます。。産膜酵母は酢やシンナーのような香りを出す酵母で、清酒にとっては歓迎されない。

役目を終えた菌から順に退場する

この工程が巧妙なのは、働き手が自分でいなくなるところにある。やがて乳酸が増えて酸性になると硝酸還元菌も死滅し亜硝酸は消えていきます。と書かれている。硝酸還元菌は、自分が用意した環境ではなく、次の担い手がつくった酸で退場する。

その乳酸菌も安泰ではない。さらに酸性が強くなると乳酸菌自体も弱ってきます。。酸が強まった頃には糖分とアミノ酸が増え、酵母が育つ条件が整う。そこへ優良な清酒酵母が加えられ、後半では残った乳酸菌もアルコールと温度で死んでいく。結果的に清酒酵母だけが純粋に培養されますという一文が、リレーの終点を示している。

生酛で育った酵母は強くなる

手間の見返りは香味だけではない。同誌は見直しの理由を二つ挙げており、ひとつは酵母だけを働かせるより、乳酸菌などの微生物を関与させることで香味がより複雑になることが期待されることだ。

もうひとつは酵母そのものの性質に関わる。生酛の環境で育てた酵母はたくましくなりアルコールが増加しても死滅しにくいということもわかってきました。。厳しい環境を通った酵母は、もろみの後半で度数が上がっても働き続ける。生酛の酒に力強さが出るのは、味の設計だけでなく酵母の履歴の話でもある。

生酛・山廃・速醸|三つの酒母を並べて見る

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清酒の造りを分けて示した図

山廃は生酛の外にあるものではない。酒類総合研究所は、山廃酛を生酛系酒母の一種として位置づけたうえで、名前の由来を説明している。

生酛系の酒母である山廃酛は、生酛の製造工程である『山卸』の操作を省略(廃止)しているので、『山(卸)廃(止)』と呼ばれています。

出典:独立行政法人酒類総合研究所「清酒(お酒のQ&A)」

山廃は櫂の代わりに麹の酵素を使う

山卸をやめても酒母が育つのは、すりつぶす目的が別の手段で果たせるからだ。「お酒のはなし」第十号は物理的にするのではなく麹の酵素の力で蒸米を溶かそうという考え方です。と書き、さらにこの方法も、醸造試験所で開発されました。と付け加えている。速醸と山廃は、どちらも同じ試験所から出た技術ということになる。

山廃は乳酸菌に乳酸をつくらせる点で生酛と同じで、省いたのは山卸だけだ。山廃そのものの詳細は山廃とはで扱っている。

三つの違いを表で確かめる

乳酸をどう手に入れるか、山卸をするか、期間はどれだけか。この三点で並べると輪郭がはっきりする。

項目 生酛 山廃 速醸
乳酸の入手先 乳酸菌がつくる 乳酸菌がつくる 醸造用規格の乳酸を使用
山卸 行う(1日3回) 行わない 行わない
硝酸還元菌の関与 打瀬で亜硝酸を生成 生酛系(個別の記載なし) 資料に記載なし
製造期間 4週間 週数の記載なし(生酛系として2倍) 生酛系の半分(同研究所は生酛系が2倍と表現)
開発の経緯 江戸時代に確立(開発者の記載なし) 醸造試験所が開発 醸造試験所が開発

山廃に要する週数を酒類総合研究所は書いていないので、この表でも空欄にせず記載なしと明示した。生酛については江戸時代に確立された技術だと書かれているが、誰が確立したかは記されていない。

三つを分けているのは、結局のところ時間の使い方だ。速醸は乳酸を買ってきて二週間を省き、山廃は乳酸菌を待ちながら山卸の手間だけを省き、生酛は両方を省かない。どれが優れているという話ではなく、何を短縮して何を残すかの選択が三通りあるということになる。

生酛・山廃で選ぶ日本酒のおすすめ銘柄30選を比較

生酛・山廃で選ぶ日本酒のおすすめ銘柄30選を比較
造りの異なる日本酒の並び

生酛や山廃の代表格から、速醸で造られる定番まで並べた。価格と特徴を横に見て、燗にするか冷やすか、どの温度で飲みたいかから絞り込んでほしい。

生酛造りを知るための日本酒30選 比較表|生酛・山廃の伝統系から速醸の定番まで
生酛(きもと)は、蔵に住みつく天然の乳酸菌の力を借りて酒母を育てる、最も伝統的な造り方だ。この比較表では、生酛造りの代表格である大七をはじめ、入門の定番(獺祭・八海山・上善如水)、新潟淡麗(〆張鶴・久保田)、入手困難な人気銘柄(十四代・而今・飛露喜・黒龍)まで、生酛・山廃の伝統系と速醸系を飲み比べるための基準として日本酒30銘柄を横断比較する。度数・味わいタイプ・産地・おすすめの温度帯・楽天/Amazonの購入先を一覧できる。表上部のタブで『おすすめ順』『価格順』に並べ替えできる(日本酒の多くはオープン価格のため定価は非掲載、市場相場の目安のみを表示/2026年6月時点)。生酛・山廃の純米は燗で旨味と酸が開きやすいので、温度帯の欄もあわせて選ぶ手がかりにしてほしい。
画像 銘柄・スコア 定価
市場相場
特徴 リンクサス酒販
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日本酒の多くはメーカー希望小売価格を公表しない「オープン価格」のため、定価(list_price)は掲載せず市場相場の目安のみを記載しています(2026年6月時点の実勢)。十四代・而今・飛露喜・黒龍石田屋などは品薄・価格変動が大きく、実勢が大きく上振れする場合があります。楽天/Amazon価格は各モールの実勢で、同一銘柄・容量が見つからない場合は空欄となります。生酛・山廃造りは銘柄ごとに造り方の表示が異なるため、ラベルや蔵元公式の表記もあわせてご確認ください。アルコール度数・精米歩合はメーカー公表値・ラベル表記に基づきますが、製造年・ロットにより前後する場合があります。最新の在庫・価格・スペックは各リンク先でご確認ください。

仕込み水を法令はどう見るか|水道法が「水道」と呼ぶもの

仕込み水を法令はどう見るか|水道法が「水道」と呼ぶもの
器に注がれた透明な水

生酛の一手目は仕込み水の硝酸塩から始まる。では、その水を国の法令はどう位置づけているのか。飲む水を扱う法律は水道法(昭和三十二年法律第百七十七号)だが、この法律の入口は、水そのものではなく施設の定義から始まる。

この法律において「水道」とは、導管及びその他の工作物により、水を人の飲用に適する水として供給する施設の総体をいう。ただし、臨時に施設されたものを除く。

出典:水道法第三条第一項(e-Gov法令検索)

三つの条件が重ねられている。導管などの工作物によること、人の飲用に適する水として供給すること、そして施設の総体であること。水質ではなく、水を運ぶ仕掛けのほうが定義されている。

蔵の井戸から汲むだけなら水道ではない

この定義に照らすと、蔵が敷地の井戸から汲んで自分の仕込みに使うだけの水は、誰かに供給されていないので水道に当たらない。第三条は続けて水道事業を一般の需要に応じて、水道により水を供給する事業と定め、そのただし書で給水人口が百人以下のものを除いている。

自家用の水道にも枠はある。第三条第六項の専用水道は寄宿舎、社宅、療養所等における自家用の水道その他水道事業の用に供する水道以外の水道と書き出され、第一号で百人を超える者にその居住に必要な水を供給するものを挙げる。第二号は一日最大給水量が政令の基準を超えるもので、水道法施行令第一条第二項がその数字を人の飲用その他の国土交通省令で定める目的のために使用する水量が二十立方メートルであることとする。と定めている。

百人という人数も、一日二十立方メートルという量も、居住や飲用に向かう水を数える物差しだ。仕込みに使う水の量が大きくても、それが人の飲用に適する水として供給されているのでなければ、この二つの入口はどちらも開かない。

水の中身と水の設備で、所管する役所が分かれている

水道法の中には、二つの省令が並んで出てくる。水質のほうは第四条第二項が前項各号の基準に関して必要な事項は、環境省令で定める。とし、いま見た専用水道の水量のほうは施行令が国土交通省令に委ねている。同じ法律の中で、水の中身と水の設備の宛先が違う。

実際、水質基準に関する省令の柱書も水道により供給される水は、次の表の上欄に掲げる事項につき環境大臣が定める方法によって行う検査において、同表の下欄に掲げる基準に適合するものでなければならない。と書かれ、検査の方法まで環境大臣が定めることになっている。

四万字を超える水道法の本則に、酒も食品も一度も出てこない

水道法の本則は空白を除いて四万三千字を超える。そこに「酒」という字は一度も出てこない。「食品」も「飲料」も同じく零回だ。飲む水の法律でありながら、その水が何になるかは書かれていない。

もっとも、蔵の水が水道法から完全に無縁なわけでもない。水道水を仕込みに引いている蔵であれば、蛇口に届くまでの水は水道法の枠の中を通ってくる。水道水を引く蔵にとっては、飲用のために整えられた水がそのまま仕込みの出発点になる。

水質基準の五十二項目|生酛が待つ硝酸が置かれている場所

水質基準の五十二項目|生酛が待つ硝酸が置かれている場所
卓上に置かれた水のグラス

水道法第四条第一項は、水が備えるべき要件を六つの号で並べている。第二号はシアン、水銀その他の有毒物質を含まないこと。、第三号は銅、鉄、弗ふつ素、フェノールその他の物質をその許容量を超えて含まないこと。だ。ここで名前を出される物質は、シアン、水銀、銅、鉄、弗素、フェノールの六つに限られる。

硝酸も亜硝酸も、窒素という語すら、この六号のどこにも現れない。数字を持っているのは法律ではなく、その下の省令のほうである。

同じ物質が二つの行に、二百五十倍離れて置かれている

水質基準に関する省令の表は五十二項目からなる。生酛に関わる物質は、そのうち二つの行に現れる。

九 亜硝酸態窒素 〇・〇四mg/l以下であること。
十一 硝酸態窒素及び亜硝酸態窒素 一〇mg/l以下であること。

出典:水質基準に関する省令(平成十五年厚生労働省令第百一号)

第十一項は硝酸と亜硝酸を合計して十ミリグラム毎リットル以下、第九項は亜硝酸だけを取り出して〇・〇四ミリグラム毎リットル以下とする。合計の上限を亜硝酸単独の上限で割ると二百五十になる。同じ物質が、単独で測られるときと合算されるときで、二百五十倍離れた線を引かれている。合算のほうは硝酸と亜硝酸を足した値なので、二つの数字は同じものを測っているわけではない。

生酛の打瀬で起きているのは、この二つの数字のあいだを動く反応そのものだ。硝酸還元菌は硝酸塩を分解して亜硝酸をつくる。合計量を変えずに、より厳しい線が引かれている側へ物質を移し替えている、と言い換えてもよい。飲む水の側から見れば減らしたい変化が、酒母の中では待たれている変化になる。井戸水を使う蔵ならこの数字自体は掛からないが、硝酸と亜硝酸をどう扱うかという物差しは共通だ。

鉄では逆に、蔵のほうが十五倍厳しい

水と酒の関係は、どの物質でも同じ向きになるわけではない。酒類総合研究所は、酒造用水についてはっきりこう書いている。

水は、清酒の造り方や品質に影響を及ぼすため、水道水より厳しい条件が求められます。

出典:独立行政法人酒類総合研究所「お酒のはなし」第10号 清酒II

同じ記事は、宮水を説明するくだりで具体的な数字を挙げている。酒造用水の鉄分の基準は0.02ppm以下。水質基準に関する省令の第三十五項は、鉄及びその化合物を〇・三ミリグラム毎リットル以下としているから、酒造用水の側はその十五分の一にあたる。ただし前者は省令の基準、後者は研究所が示す目安で、法的な性質は違う。鉄は酒の着色と劣化を進めるので、蔵は飲用の基準よりはるかに手前で線を引く。

鉄では蔵のほうが厳しく、硝酸では向きが反転する。水質の話を一つの尺度でまとめられないのは、水に求めるものが飲むためか醸すためかで変わるからだ。飲む場面での水の役割はチェイサーとはで別に扱っている。

水を選んだのではなく、水の性質を工程に組み込んだ

宮水の逸話は、水の違いが酒に出ることを示した実例として知られている。同誌は、天保十一年に西宮の水を魚崎に運んで仕込んだところ酒質が向上したと記し、そこから宮水という呼び名が生まれたと書いている。井戸の深さは約四メートルで、地面から浅いところに水があった。

生酛の設計は、その延長線上にある。水に含まれるものを取り除いてから使うのではなく、水が連れてきた硝酸塩を最初の一手に使う。打瀬の三日間は、水の性質が工程の一部として組み込まれている時間だと言える。

蔵から出る水|水質汚濁防止法の政令が清酒を名指しする一か所

蔵から出る水|水質汚濁防止法の政令が清酒を名指しする一か所
積み上げられた酒樽

入ってくる水に法律があるなら、出ていく水にもある。水質汚濁防止法(昭和四十五年法律第百三十八号)は、工場や事業場から公共用水域に出る水を規制する法律で、本則は空白を除いて二万二千字あまりだ。この本則にも「酒」「清酒」「醸造」「食品」はいずれも一度も出てこない。「硝酸」「亜硝酸」「窒素」も同じく零回である。

数字と品目を持っているのは、ここでも下の法令のほうだ。第二条第二項はこの法律において「特定施設」とは、次の各号のいずれかの要件を備える汚水又は廃液を排出する施設で政令で定めるものをいう。と書き、中身を政令に預けている。

清酒の蔵は「飲料製造業」として拾われる

その政令が水質汚濁防止法施行令で、第一条が別表第一を指す。別表第一の号は第一号から第七十四号まであり、枝番を含めて数えると百二、うち第二十五号は削除されているので実在は百一になる。清酒の蔵が入るのは第十号だ。

十 飲料製造業の用に供する施設であつて、次に掲げるもの イ 原料処理施設 ロ 洗浄施設(洗びん施設を含む。) ハ 搾汁施設 ニ ろ過施設 ホ 湯煮施設 ヘ 蒸留施設

出典:水質汚濁防止法施行令 別表第一(第一条関係)

清酒という語はここにはなく、飲料製造業という広い枠に六つの施設が並ぶ。こうじを業として造る側は第九号にあり、米菓製造業又はこうじ製造業の用に供する洗米機と書かれている。この号で名指しされる機械は洗米機ひとつだけだ。

一年の猶予が付くのは、浸す・洗う・濾すの三つ

同じ政令の別表第三は、法第十二条第二項の適用猶予を六月ではなく一年とする施設を三十八号にわたって並べたものだ。ここで清酒が名前で登場する。

九 別表第一第十号に掲げる施設のうち、清酒製造業の用に供するイ、ロ及びニの施設
十 別表第一第十号に掲げる施設のうち、蒸りゆう酒製造業の用に供するイ、ロ及びヘの施設

出典:水質汚濁防止法施行令 別表第三(第五条関係)

清酒に割り当てられたイ、ロ、ニは、原料処理施設、洗浄施設、ろ過施設だ。米を浸し、道具や瓶を洗い、濾す。蒸留酒のほうはイ、ロ、ヘで、三つ目が蒸留施設に替わる。清酒には蒸留がないのだから当然の割り振りだ。ただしこれは猶予の話で、特定施設そのものは第十号の六つのままである。

そこで別表第一第十号の六つに戻ってみる。原料処理、洗浄、搾汁、ろ過、湯煮、蒸留。酒母を育てる半切りも、暖気樽も、もろみの仕込みタンクも、そのどれにも当たらない。生酛が四週間かけて起こしている出来事は、この政令が名前を与えた施設のどこにも載っていない。

発酵工業という号からは、飲料製造業が除かれている

別表第一には発酵工業という号もある。第三十号だ。

三十 発酵工業(第五号、第十号及び第十三号に掲げる事業を除く。)の用に供する施設であつて、次に掲げるもの イ 原料処理施設 ロ 蒸留施設 ハ 遠心分離機 ニ ろ過施設

出典:水質汚濁防止法施行令 別表第一(第一条関係)

括弧で除かれている三つは、第五号がみそ、しよう油、食用アミノ酸、グルタミン酸ソーダ、ソース又は食酢の製造業、第十号が先ほどの飲料製造業、第十三号がイースト製造業である。清酒は第十号の飲料製造業で先に拾われているので、発酵工業の号には回ってこない。

その第三十号に並ぶのも、原料処理施設、蒸留施設、遠心分離機、ろ過施設の四つだ。発酵工業と名のついた号にさえ、発酵させる槽そのものは出てこない。ちなみにこの政令で「発酵」という語が使われるのは、この号のただ一度だけである。

この政令の中で「酒」という字が現れるのは三か所しかない。二つはいま見た別表第三の清酒製造業と蒸りゆう酒製造業で、残る一つは別表第二に並ぶ千葉県柏市の地名「酒井根」だ。「酒類」も「醸造」も零回である。

届け出る事項は九つ、罰則は六か条ある

特定施設を置いて公共用水域に水を出すときは、事前の届出が要る。法第五条第一項は、都道府県知事に届け出る事項として、氏名または名称と住所、工場または事業場の名称と所在地、特定施設の種類、構造、設備、使用の方法、汚水等の処理の方法、排出水の汚染状態および量、その他環境省令で定める事項の九つを並べている(有害物質使用特定施設でなければ第五号の設備は除かれる)。

基準そのものを守る義務は第十二条第一項に置かれ、排出水を排出する者は、その汚染状態が当該特定事業場の排水口において排水基準に適合しない排出水を排出してはならない。と書かれている。測る義務も別にあり、第十四条第一項が汚染状態を測定し、記録し、保存することを求めている。

罰則は第三十条から第三十五条までの六か条だ。命令違反が一年以下の拘禁刑または百万円以下の罰金、第十二条第一項の違反が六月以下の拘禁刑または五十万円以下の罰金で、第五条や第七条の届出を怠った場合は三月以下の拘禁刑または三十万円以下の罰金になる。記録をしなかった場合は三十万円以下の罰金、第三十五条の一部の届出義務違反は十万円以下の過料にとどまる。

目を引くのは第三十一条第二項で、過失により、前項第一号の罪を犯した者は、三月以下の拘禁刑又は三十万円以下の罰金に処する。と過失犯が明文で置かれている。うっかり基準を超える水を出した場合も罰の対象になるという構えで、その分だけ日々の測定と記録に重みが置かれている。生酛のように四週間かけて水を使う造りであっても、この法律が見るのは排水口の一点だ。

出口では名前が「態」から「性」に変わる

排出する側の数字は、排水基準を定める省令の別表第一にある。この物質を有害物質に指定しているのは施行令第二条第二十六号で、そこから同省令の別表第一に行が置かれる。

アンモニア、アンモニウム化合物、亜硝酸化合物及び硝酸化合物|一リットルにつきアンモニア性窒素に〇・四を乗じたもの、亜硝酸性窒素及び硝酸性窒素の合計量一〇〇ミリグラム

出典:排水基準を定める省令 別表第一(第一条関係)

水道の側では硝酸態窒素、排水の側では硝酸性窒素。同じ物質が「態」と「性」で呼び分けられている。合計の取り方も違い、こちらはアンモニア性窒素に〇・四を掛けたうえで足し合わせる。係数が掛かるのはアンモニアだけで、亜硝酸性窒素と硝酸性窒素はそのまま加算される。

数字も十倍離れている。ただし比べる対象は同じではない。十ミリグラム毎リットルは水道により供給される水についての基準で、百ミリグラム毎リットルは特定事業場の排水口についての許容限度だ。守るべき相手が飲む人か公共用水域かで、置かれる位置が変わる。

生酛の味わいと燗|温度で開く旨味と酸

生酛の味わいと燗|温度で開く旨味と酸
囲炉裏にかけられた燗の支度

生酛の酒は、酸に支えられた濃さで語られることが多い。乳酸菌が時間をかけて働くあいだに、乳酸だけでなく複数の有機酸が生まれ、味の層が増えるからだ。酒類総合研究所が挙げる見直しの理由の一つが香味の複雑さだったことは、すでに見たとおりである。

温めると旨味と酸がほどけてまとまる

生酛や山廃の純米が燗で好まれるのは、冷たいうちは締まって見える酸が、温度が上がるとふくらんで旨味と釣り合うからだ。人肌からぬる燗のあたりで香りが立ち、上燗まで上げると味の輪郭が丸くなる。度数の高い原酒でなければ、熱めにしても崩れにくい。

同じ一本を、常温、ぬる燗、上燗と温度を変えて試すと、生酛の幅がわかりやすい。温度帯ごとの呼び名と目安は燗酒とはにまとめている。

燗にするときは、徳利ごと湯煎にかけて少しずつ上げるほうが香りが飛びにくい。急いで温めると角が立つことがあるので、時間をかけて上げたほうが生酛の持ち味に合う。冷やす場合も、冷蔵庫から出してすぐより、数分置いて温度が戻り始めたあたりのほうが旨味が出やすい。

酸があるぶん、味の濃い料理に負けない

酸と旨味が両方あるので、出汁の効いた煮物、味噌を使った料理、脂ののった魚や肉と合わせやすい。冷やして飲む場合は酸が引き締まるため、揚げ物のあとを切る役にも回る。冷やす方向と温める方向のどちらでも成立するのが、生酛の使い勝手のよさだ。

純米か本醸造かでも印象は変わる。米と米麹と水だけで造られる純米の枠については純米酒とはを参照してほしい。

生酛の選び方と、飲まない一本の行き先

生酛の選び方と、飲まない一本の行き先
造りと数値が並ぶ日本酒のラベル

生酛かどうかは、ラベルの表示で確かめられる。生酛造り、生もと仕込み、山廃仕込みといった書き方で、造りが記されていることが多い。速醸で造られた酒にわざわざ速醸と書く例は少ないので、書かれていなければ速醸だと考えてよい場面が大半だ。

ラベルで見る順番を決めておく

最初に造りの表示、次に純米かどうか、最後に精米歩合という順で見ると迷いにくい。生酛の持ち味である酸と旨味は、米の削りが浅いほど出やすい傾向があるので、はじめの一本なら精米歩合が高めの純米が扱いやすい。精米歩合そのものの決まりは精米歩合とはにまとめている。

もう一つの手がかりが製造年月だ。生酛は熟成に耐えるタイプが多く、一年ほど置いた瓶が落ち着いた味になっていることもある。ただし保管が常温の明るい場所だった場合は別で、劣化と熟成は同じ時間の経過でも中身が違う。

飲み方から逆算して選ぶ

燗で飲むと決めているなら純米の生酛か山廃、冷やして食中に置きたいなら酸のきれいなタイプ、というように飲み方から逆算すると外しにくい。同じ蔵が生酛と速醸の両方を出していれば、その二本を並べて飲むのがいちばん違いを掴みやすい。

にごりの入ったものやおりを残したものは、生酛の濃さとは別の要素が加わる。にごり酒とはやおりがらみとはもあわせて読むと、選択肢の整理がしやすい。当店の在庫は日本酒コレクションから確認できる。

飲まない日本酒の査定・買取はリンクサスへ

贈答で受け取ったまま置いている一升瓶や、飲みきれない四合瓶がある場合は、状態が変わらないうちに査定に出すという選択肢がある。リンクサス酒販では日本酒の買取を行っており、銘柄、容量、製造年月、保管状態を確認したうえで金額をお伝えしている。

贈答品や古い在庫が複数本ある場合は、一本ずつ判断するより並べて相談したほうが早い。同じ蔵の同じ銘柄でも、容量や製造年月が違えば扱いが変わることがある。

よくある質問

よくある質問
徳利から盃へ注ぐところ
生酛とは何ですか。

乳酸を人の手で加えず、乳酸菌に乳酸をつくらせて酒母を育てる造り方です。酒類総合研究所は、酒母を乳酸の獲得方法で生酛(山廃)系と速醸系に分け、生酛系では乳酸菌に乳酸を造らせると説明しています。乳酸菌が増えるまで待つため、製造期間は速醸系の二倍かかるとされています。

生酛と山廃はどう違うのですか。

山卸を行うかどうかが違います。酒類総合研究所は、山廃酛を生酛系酒母の一つとしたうえで、生酛の工程である山卸を省略したので山卸廃止と呼ばれると説明しています。山卸の代わりに麹の酵素の力で蒸米を溶かす考え方で、乳酸菌に乳酸をつくらせる点は生酛と共通です。

山卸はどれくらい大変な作業なのですか。

酒類総合研究所の資料では、冬の寒い部屋で半切り一つに二人から三人がかりで、一日三回行うと書かれています。仕込みは蒸米と麹と水を半切りに十四から十五キログラムずつ、摂氏八度程度で行います。この作業を省いたのが山廃で、速醸と同じく醸造試験所で開発されました。

硝酸還元菌は何をしているのですか。

打瀬と呼ばれる期間に、仕込み水に含まれる硝酸塩を分解して亜硝酸をつくります。この亜硝酸には酵母の増殖を抑える作用があり、清酒酵母を加える前の段階で、米に付いてきた酵母を抑えます。やがて乳酸が増えて酸性が強まると硝酸還元菌自体も死滅し、亜硝酸は消えていきます。

硝酸は水道の基準ではどう扱われていますか。

水質基準に関する省令の表で二つの行に現れます。第九項が亜硝酸態窒素を〇・〇四ミリグラム毎リットル以下、第十一項が硝酸態窒素及び亜硝酸態窒素を合計で一〇ミリグラム毎リットル以下としています。ただし水道法第四条第一項の六つの号には物質としてはシアン、水銀、銅、鉄、弗素、フェノールしか名前が出てこず、硝酸や窒素という語は出てきません。

清酒の蔵は水質汚濁防止法の規制を受けるのですか。

受け得ます。水質汚濁防止法施行令の別表第一第十号が飲料製造業の用に供する六つの施設を特定施設として挙げており、清酒の蔵はこの枠で拾われます。同令の別表第三第九号は、そのうち清酒製造業のイ、ロ及びニ(原料処理施設、洗浄施設、ろ過施設)について基準の適用猶予を六月ではなく一年に延ばす定めで、特定施設が三つに減るわけではありません。実際に届出や排水基準が適用されるかは、施設の有無や地域の指定によって決まります。

酒造用水の基準は水道水より厳しいのですか。

物質によります。酒類総合研究所は、酒造用水について水道水より厳しい条件が求められると書き、鉄分の基準を〇・〇二ppm以下としています。水質基準に関する省令の鉄は〇・三ミリグラム毎リットル以下なので、鉄については十五分の一にあたります。一方で硝酸は、水道の側では減らす対象ですが、生酛では最初の一手に使われます。

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